鎌田康男のドイツ滞在記&写真アルバム
Special Series: From Germany 2005/2006
ドイツ便り 2005/2006
メッセージ、コメントなどお待ちしています

* Internationaler Kongress: Die Ethik Arthur Schopenhauers im Ausgang vom Deutschen Idealismus (Freiburg)
* Internationale Konferenz: Schopenhauer und Schopenhauer-Schule (Lecce)
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マインツ(鎌田の生活圏)周辺地図

2005/04/14
Mainz

1995年から10年間勤務した関西学院大学総合政策学部から、念願の学院留学を許されて、1年間ドイツで過ごすことになった。出張先は、マインツ大学哲学部哲学講座ショーペンハウアー研究所(客員教授)。
朝一番の電車で空港に向かい、9:45発のルフトハンザ機に乗り込む。(例によって)前夜は旅行準備で徹夜だったため、機内では爆睡、予定通り現地時間午後3時前にフランクフルト空港着。すでに連絡を取ってあった不動産屋に電話をかける。マインツ駅で合流して、1年間住むことになる住居に案内してもらう。インターネットで写真なども見ていたが、予想以上によいところだ。その場で賃貸契約に署名する。ただし、まだキッチンの内装工事が完了していないので、それまで家賃は要らないという。
住居は、マインツ中央駅から2kmほどのところで、大学までも1,5kmぐらいだが、緑が多く、田舎に来たような気持ちになる。駅から家までの風景(路面電車を使った場合)をご覧あれ。

2005/04/15
Weg zur Uni

翌日は、さっそくマインツ大学まで歩いてみる。小径を約20分。このあたりは桜の木が多いが、満開は過ぎて、散りかけていた。野の草が咲き乱れ、散歩するには快適な気候である。美しき五月も近い。春うららの通勤路の写真(5/21)。快晴でうそのような青空である。到着翌日(5/15)に撮った Ver.1 はこちら

2005/04/16
Mainzer Dom

マインツ旧市街の大聖堂付近(マインツ市内の詳しい写真アルバムは、もう少し歩き回ってから作成します。)

2005/04/22
Wiesbaden
今日はライン川対岸の町ヴィースバーデンを訪ねた。理由は極めて不純なものであった。マインツのバス・市電料金は2.05ユーロ(約280円)と、やや高いと思っていた。しかし、この切符で隣町ヴィースバーデンも通用するという。それなら、と買物にでかけたついでに足を伸ばしたのである。うまく使えば、コストパフォーマンス的には京都市内均一210円に劣らないだろう。2000年の歴史を持つマインツと違って、ヴィースバーデンは19世紀に発達した保養地である。19世紀末のまがまがしいスタイルの建物が多い。石のかわりに煉瓦で造ったネオ・ゴシックの教会。旧市街周辺には、資本主義に潤った者たちの豪邸(跡)が立ち並ぶ。ただし、現在では普通の住居サイズに分割されていることが多い。金持ちたちの多くはとっくに郊外に移ってしまったのだ。ここには、パリやロンドンなどと同じく、近代に入ってから急激に発展した町に特徴的な雰囲気が感じ取られる。

2005/04/25
Vorlesung
講義が始まる。客員教授の最初の講義ということで、まず哲学講座長ドライヤ教授と、ショーペンハウアー研究所長のコスラー教授が歓迎の言葉と紹介をしてくださった。講義の最初に、日本の学生たちに見せるためと断って、教壇から受講生たちを撮影させてもらった。最初の授業の慣例に従って早めに切り上げたのだが、その後質問やコメントをどうぞ、と言ったら、次から次へと質問が出、鎌田も夢中に答えまくって、結局時間をほぼフルに使ってしまった。ドイツの学生たちの熱気に目を覚まされた瞬間であった。なお講義題目は、Schopenhauer zwischen der östlichen und der westlichen Philosophie(ショーペンハウアー ― 東洋の哲学と西洋の哲学との狭間)

2005/04/27
Bretzenheim
私が住んでいるブレーツェンハイムの散歩。大学の帰り道に、Albert-Schweizer-Straße を経て、ブレーツェンハイムの市街地に向かう。かつての町の中心、ブレーツェンハイム役場、現在の地区役場(出張所)のすぐ近くの小高い丘に、教会がある。ここから町の路地をぶらぶらと散歩した。小ぎれいな家が並んだ小さな町である。この間万歩計は8000歩(約3 km)を記録した。大学・ブレーツェンハイム(役場)・自宅の位置関係を見るには、こちらの地図を参照。(その後このページに戻るには、ブラウザのバックボタンをクリック!)

2005/05/01
Wohnung
鎌田の住居

2005/05/05-08
Freiburg i.Br.
5月5日~8日にかけて、フライブルクで開催されたショーペンハウアー学会に出席した。学会風景は、次のアルバム。
さて、フライブルクは環境保護のモデル都市、環境首都ともいわれている。フライブルクの風景。写真は、マインツからフライブルクに向かう特急(ICE)の運転席の写真で始まり、フライブルク中央駅から、Eisenbahnstraße の私の宿舎 Park Hotel Post、市庁舎を経て大聖堂 Münster までの10分ほどの散歩道と、旧市内の風景、そして、フライブルクを見下ろす城山の散歩、再び旧市内に戻って、帰りの列車の車窓の風景で終わる。

2005/05/05-08
Kongress
2005年5月5日~8日にかけて、フライブルク大学で開催された国際ショーペンハウアー学会「ドイツ観念論の後継としてのアルトゥール・ショーペンハウアーの倫理学」の会場風景。この学会は、フィヒテ協会、シェリング協会が共催し、更に地元ハイデッガー協会長フィガル教授らも参加していた。
鎌田は、「シュルツェとシェリングがショーペンハウアーの意志の否定の理論に及ぼした影響」という題で発表したが、テーマの性格上、これらの哲学者たちのフィヒテ批判にかかわる問題にも触れたために、発表のあとフィヒテ協会会長のシュトルツェンベルク教授と熱い質疑応答を交わすこととなった。

2005/05/11
Stammtisch
哲学科の学生(しばしば教員も)が毎週水曜日に集まる某所(Stammtisch)。店名は Heiliger Aal、HA と略記。意味は「神聖な鰻(ウナギ)」。駅の近くであること、夜9時頃から本格的に始まること、OPEN END で、遠くの人はそれぞれの終電車や終バスにあわせて帰って行くところなど、鎌田ゼミとあまりにも似ている。同一人物の着ているものが違うのは、着替えているのではなく、違う日に撮影したためである。(^_=)

2005/05/26
Mainz-Waldenburg
マインツからヴァルデンブルクまでの一泊旅行。宗教改革に関する史跡を中心に回った。神聖ローマ帝国皇帝カール5世が招集した国会において、ルターが宗教改革の主張撤回に応じなかったために法的保護停止を決定することになった(1521 ウォルムス勅令)舞台であるウォルムスを訪ねる。ウォルムスからさらに東南約150kmの小さな町ノイエンシュタイン(Neuenstein)を経てヴァルデンブルク(Waldenburg)のパン屋さんが経営する旅館に宿泊。部屋の窓からの眺めは、これまでに泊まったどのホテルにも劣らない絶景(写真は翌日の朝に撮影)。鎌田の好きな町チューリンゲンの町ワルトブルク(Waldburg)とは違うので注意。このあたりは日本人ツーリストにはほとんど知られていないと思われるが、町も周囲の風景も実に美しい。旅行の行程地図

2005/05/27
Waldenburg-Mainz
翌日は、焼きたての自家製パンで朝食。山を下って Gnadental(恩寵の谷)に向かう。中世にはシトー派の女子修道院があり、自給自足の厳しい生活を営んだ。昼過ぎまでグナーデンタールに留まる。すでに何度か訪れたことのある西南ドイツ宗教改革の拠点の一つシュヴェービッシュハル(Schwäbisch Hall)に立ち寄る。穏健な宗教改革者ヨハネス・ブレンツ(Hohannes Brenz)の指導の下「偶像破壊」なども極力回避したため、カトリック時代のものも、よく保存されている。その後、アプツグミュント(Abtsgmünd)の南西にあるホーエンシュタット(Hohenstadt)へ。おそらく人口数百人の小さな村であるが、教会、宮殿(現在使われているので、見学はできなかった)、およびドイツとしては初期のフランス式庭園がある。庭園で十分時間を取り、そのあと休憩時にカフェで「現代の巡礼者」と知り合い、話を聞いたりして午後の時間をほとんど過ごすことになる。このあとの予定をはしょり、アーレン、エルヴァンゲン、クライルスハイムを少しずつ見て、日没(午後10時頃)後一気にマインツに帰還。朝のヴァルデンブルクからマインツ帰還までの写真

2005/06/03
Ingelheim
気の向くままに、夕方近くになってマインツの西10kmあまりのところにある小さな町インゲルハイムを訪れる。(位置は、この地図のマインツ MAINZ のの字のあたり。)カロリング朝時代からの中世城塞であるが、今は城の敷地内には教会だけが立っている。周囲は中世初期の面影の城壁で囲まれ、部分的には二重城壁も残っている。町には、ワインの酒蔵が並んでいる。フランス国境に近いライン川左岸は、ドイツとしては珍しく、よい赤ワインができる。ショーペンハウアーはインゲルハイム産の赤ワインを愛飲したと伝えられている。町の周囲はもちろんぶどう畑。日没と共に稲妻・雷鳴をともなう夕立、というよりは大嵐となり、ほうほうの体で帰宅。それにしても、黒雲立ちこめるラインの広い谷も壮大であった。雷神ドンナーが鎚を振りあげるたびに飛び散る閃光は、天から大地を罰するべく打ち下ろされる輝くムチのようであったが、写真に収めることはついにできなかった。

2005/06/18
Büdingen
大学が、外国人学生および外国人教員のために催した遠足。目的地はビューディンゲン。位置は、この地図のフランクフルト Frankfurt am Main のの字の少し北に位置する。中世の面影がよく残っている。プロテスタント圏でありながら(プロテスタント圏であったが故に?)17世紀頃まで魔女狩り(拷問や処刑)が盛んに行われたという暗い歴史もある。商売熱心なビューディンゲン・イーゼンブルク公爵公式サイトは一見の価値がある。

2005/08/20
Chagall-Fenster
左の写真は、8月20日に訪れたマインツ・聖ステファン教会の祭壇側のステンドグラス。この教会のステンドグラスはすべてシャガール作のブルーの色調で統一されている。写真をクリックすると拡大表示される。また、表示ウインドウを大きくすると、写真もズームアップされる。

2005/08/31
Hochheim
ワインの季節、ぶどうの収穫が始まる。
これまではビール文化圏にしか住んだことのなかった鎌田も、マインツに来て次第にワインとのおつきあいが増えてきた。
ラインガウの白ワインの名産地のひとつ、ホッホハイム は、マインツから見てライン川の対岸、ヴィースバーデンの東にある。南向きのブドウ畑の丘の上に発展したのどかな町である。位置は、この地図のマインツ MAINZ と、そのすぐ東のリューデスハイム Rüsselsheim(オーペル自動車の本拠地)の間のアウトバーン・インターチェンジ⑤の位置。左のワインのラベルをクリックすると、アルバムに進む。私がこれまで味見した印象では、ここの白ワインは Spätlese(写真左)でも、こくがあるのにあっさりしてのみやすい。ホッホハイム産のワインのラベルに描かれている教会(聖ペトロ・聖パウロ教会)は町のシンボルで、遠くからもよく見える。美しいバロックのフレスコ画がある(修復中)。町のあちらこちらにある、(アーチ型の門構えが主流の)塀に囲まれた広い中庭のある建物はたいていワイン酒造。

2005/08/31
Kostheim
マインツのライン川対岸にあるコストハイム地区。ここは、2004年度鎌田ゼミドイツ研修参加者には懐かしいところ。季節の移り変わりも一目瞭然である。ただし、写真に写っているのはマイン川。マイン川はこのすぐ川下でライン川に合流する。

2005/09/04
Weinmarkt
8月末から9月初めにかけてマインツで開かれた恒例のワイン・マーケット。市民公園がメイン会場になり、ビヤガーデンならぬワインガーデンがあちらこちらに設置される。また隣接のバラ園には、夜店が並ぶ。どの商品も工芸的なレベルが高く、薔薇の香りに囲まれた夜店の雰囲気もよく、私はここがとても気に入った。しかし、ブドウの収穫はこれから。追ってワイン祭の写真も紹介したい。

2005/09/06
Rheingold
川の底で輝く「ラインの黄金伝説」は、かつてライン河畔で砂金が産出したということのほかに、この夕日の輝きに由来するともいわれている。(そういえば、ハイネの描くローレライも、金髪のくしけずる姿が夕日に映えて輝いていた!)写真をクリックすると拡大表示になる。表示ウインドウを大きくすると、写真もズームアップされる。なお、写真はマインツとインゲルハイムのほぼ中間地点、ハイデスハイムの河岸から撮った。
ワーグナーの音楽劇『ニーベルンクの指輪』第一部の「ラインの黄金」では、ラインの乙女たちが川底で守る黄金を、ニーベルンク族のアルベリヒが奪い取って、世界支配の指輪を作る筋立てになっている。民族大移動に続く動乱期、覇権を争う中北ヨーロッパの諸族指導者が争って金を採取した状況を反映したものでもあろうか。そこにワーグナーは、カネだけを追い求める近代の醜い権力者たちの姿を重ね合わせていたに違いない。黄金を奪われて嘆き悲しむラインの乙女たちの仇を果たすために、ローレライが川下で待ちかまえているようにも思えてくる。(^_=) ハイネの種本となったブレンターノ版のローレライや、同じブレンターノがA. アルニムとともに編纂した『少年の不思議な角笛』に収録された「ラインの契りの指輪」(ラインの黄金伝説のもっとも有名なバリエーション)はともにアーサー王伝説の影を強く感じさせる。しかし、そこまで行ってしまうと、ヨーロッパの伝説はすべてアーサー王伝説に通じるという月並みの議論に終わってしまう危険もある。

2005/09/21
Lecce
Internationale Schopenhauer-Konferenz in Lecce vom 22. bis 24. September 2005 an der Universität Lecce. Zu den Fotos gibt es Erläuterungen auf deutsch und auf japanisch. 21.09.2005 - 22.09.2005 - 23.09.2005 - 24.09.2005
Lecce liegt in Apulien >>> Landkarte
9/22-25 まで南イタリアのレッチェで行われたショーペンハウアー国際学会の模様を中心に紹介します。2005/09/21 - 2005/09/22 - 2005/09/23 - 2005/09/24
レッチェはイタリアの長靴のかかとに位置します。>>> レッチェ周辺地図

2005/09/25
Ostuni
Nach der Schopenhauer-Konferenz: Spaziergänge in und um Lecce. Zu den Fotos gibt es Erläuterungen auf deutsch und auf japanisch.
1. Teil: Rundgang in der Altstadt von Ostuni (25.09.2005). Routenbeschreibung (rote Linie)
ショーペンハウアー学会終了後の9/25-30 までレッチェおよびその周辺を調査したときに撮影した写真のアルバムです。この5日間に約10万歩 ― マラソン・ランナーなら2時間あまりで走ってしまう距離ですが ― を踏破しました。その第1部
2005/09/25 オストゥニ(Ostuni)旧市街散歩 ― 南イタリア中世都市のかたち(構造・雰囲気)がよく保存された美しい街です。場所はレッチェ周辺地図を参照。探索ルートはこちらの地図の赤線。

2006/02/27
Rosenmontag in Mainz
マインツのカーニバル(薔薇の月曜日)の行列はドイツのカーニバルのなかでも華麗さと風刺力で有名
Teil 1 (第1部) Rosenmontag in Mainz (1)
Teil 2 (第2部) Rosenmontag in Mainz (2) aufgenommen von Patricia Rehm

2006/03/10
Warszawa
ワルシャワ大学での講演の後、ツヴォリンスキー教授らと(社会主義時代に作られた豪華な)カフェ「新世界」で懇談。

2006/03/11
Warszawa-Gdansk
翌日、ワルシャワの旧市街、新市街を見てから列車でかつてのハンザ都市ダンチヒへ向かう。待ちきれずに、夜のダンチヒを探索。

2006/03/12
Gdansk-Poznan
ダンチヒからポズナンへ。ダンチヒは新労働者組合ソリダリノシュ Solidarinosc設立の町として有名であるが、自由独立の伝統的気風の中で、何度も独立運動や抵抗運動の拠点となった。自由思想家 ― 近代的自由自体を教条化することに抵抗した徹底的自由思想家 ― ショーペンハウアー Arthur Schopenhauer もフランス革命前夜の1788年、ダンチヒに生まれている。私のダンチヒ訪問の目的も、ショーペンハウアーの生まれ育った環境をこの目で見、またショーペンハウアーの生家を確認することであった。ショーペンハウアーの母ヨハンナの生家はほぼ確定できたが、ショーペンハウアー自身の生家については、伝えられる生家は確認できたものの、その伝承自体に若干の疑問が残った。

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