【新・総合政策論】
関西学院大学総合政策学部 新学科開設記念連続公開講座
「総合政策のニューフロンティア」


知の世界地図を描こう ― 総合政策のフィロソフィー ―

(2009年6月24日水曜日)



このテキストは、2009年6月24日関西学院大学総合政策学部
新学科開設記念連続公開講座「総合政策のニューフロンティア」での講演記録です。

■はじめに
みなさま、こんばんわ。夕方の6時ですが、夏至がすぎたばかりで日が長く、こんばんわというのはちょっと気が引けるのですけれど、どうなんでしょうね。ただいま紹介にあずかりました、関西学院大学総合政策学部の鎌田康男です。よろしくお願いします。
今回は「知の世界地図を描こう―総合政策のフィロソフィー―」という題でお話ししたいと思います。これまですでに5回の講演がありました。私は初回高畑先生の講演を聞きに参りまして、とてもおもしろかったのでやめられずに第2回の関根先生の講演も聴かせていただく、という具合で、気がついてみたら皆勤をしておりました。
高畑先生は、連続公開講座の導入というかたちで広く全体のテーマを捉えておられ、あとの先生方はそれぞれの専門分野を掘り下げるというかたちでお話しをいただきました。
これまで取り上げられたさまざまなテーマは、どれも非常にエキサイティングなもので、聞いている私も夢中になっておりました。連続公開講座の最終回にあたって、総合政策という視点から、それらのテーマをどのように総合的に関係づけることができるのか、ということを考えるのも、皆様の興味をそそる問題ではないかと思います。
連続公開講座の講師全員が参加して2週間後に催されるシンポジウムも視野に収めつつ、それらのテーマの関係について考えてみようということから、「知の世界地図を描こう」というタイトルでお話しさせていただくことにしたわけです。
地図は非常に便利なものです。たとえば、キッピーモールから郵便局にいくとか、あるいはさらに、2週間後のシンポジウムが開催される関西学院大学神戸三田キャンパスまで行くとすると、ふつうなら今まで行ったことのある道をたどって行くことになるでしょう。しかし場合によっては、それが遠回りであるかも知れない。でも遠回りなのか、近道であるのかは、すぐわからないことが多いのですね。ところが、地図を持っていますと、あるいは頭の中に地図が入っていますと、今ここにいるから、あの道を行けば一番近いな、ということで、最短の道を選び、迷子にならずに目的地に到達できます。これは地図を持つことの長所です。
なかには、いや私はバスで行く、誰かの車に乗せてもらう、という方もおられるでしょうが、そのときでも、地図が要らないのではなく、地図を調べる仕事を他の人にしてもらっているに過ぎないのです。
地図はとても便利なものですが、短所もあります。本物ですと実際に現地に行けるのですけれども、地図の中のレストランではごちそうを味わえません。つまり、地図というのは、全体の中の位置関係が分かるという便利さと同時に、やはり、本物に接することができない、靴の底から足の裏を掻くようなもどかしさもあります。
私自身が専門としている哲学という研究領域は、研究対象も研究方法もまちまちの、さまざまな専門領域が他の専門領域とどのように関係しているか、という学問の全体的な関係に強い関心を持っています。知の世界地図を描くことは哲学の重要な仕事のひとつなのです。そのような作業をしているときは、具体的な対象に直に触れることはその分少なくなり、そのために哲学は抽象的で難しいものであるというイメージをもたれることもあると思います。しかし、全体の関係を総合的に理解することと、個々の問題を地道に処理していくこととは、車の両輪のようにどちらも外すことができないものなのです。それにもかかわらず、現代の学問ではそれぞれの専門の研究が高度になり、複雑になってまいりまして、いろいろな領域にまたがる全体的な見方をするゆとりがなくなってきています。そのために専門バカというような言葉も作られたりしました。しかし、何をしている人でも、自分の属する世界の地図を懐に、または頭に入れて、自分がどこにいるのか、この広い世界でどのような役割を漠然とであっても理解してはいるのです。ただその地図は、しまったままにして余り使わず、またメンテナンスを怠っていると、必要なときに役に立たなかったり、読み方を忘れていたりして困ってしまいます。知の世界地図を活用するためには、絶えずその地図を見ては地形や重要地点の位置関係を復習し、自分に利害関係がある目先の事柄だけではなく、もっと広い視野から把握しておくことが必要なのです。更にそのような世界地図的な知性は、現代のさまざまな問題を解決するにあたっては、進むべき方向を見いだしたり、今進んでいる方向を確かめたりするためにも重要な役割を果たします。知の世界地図にサポートされた問題解決、そして人と自然の未来像を描くこと、それが総合政策学部のフィロソフィーでもあります。そのことを関西学院大学総合政策学部は、Think globally, act locally(全体を考えつつ、具体的に行動する)というスクールモットーによって言い表しています。

さて、本日のテーマを4つに区切ってお話ししたいと思います。
1. なぜ「総合政策」を説明するのが難しいのか? ― 物語のすすめ
2. 知的世界地図を描く ― 人間存在の重層構造
3. 総合政策学は総合学である
4. 総合政策学は政策学である

1. なぜ「総合政策」を説明するのが難しいのか? ― 物語のすすめ

総合政策とはなんでしょう。総合政策学部という名前を初めて耳にする方は、たいてい戸惑うと思います。これまで、総合政策学部の学生や教員にお尋ねになった方もあると思います。しかし聞いてみると、ひとによって答えがまちまちだったり、答えにつまったり、なかなか納得いかないこともあったかも知れません。現代は、自分の利益に関心を集中する余り、人と人、人と自然の共生を忘れかけております。共に、「よく生きる」ための理念や展望が失われかけた時代だとも言えます。そのために人はますます自分のことだけを考え、自分の利益だけのために生きるようになり、そして社会を、世界を住みにくくするという悪循環に陥り始めているようです。そのような中で、自分の殻に閉じこもり、他の人とのコミュニケーションを取るのが下手な人々が増加しています。人と人の共生は、学問の世界でいうなら、異なる研究領域同士の共生です。ですから、総合政策とは何か、という問いは知の共生の問題を含み、私たちの日常生活における共生の問題と通じ合っているのです。人と人、人と自然の共生が、最近特に強く求められているように、総合知の構築と実践は、まさに現代においてこそ強く求められていることだと考えます。だからこそ、知の世界地図をふところに、あるいは頭の中にたずさえつつ、現代の問題解決に挑み、人と自然の未来像を描く総合政策学が何としても必要なのです。
たしかに、総合政策という言葉は、皆がしじゅう使うわりには、説明するのが難しいのです。しかも説明は人によってまちまちです。でも、重要な事柄はたいていそうです。キッピーモールは三田駅の改札口から80メートル(かな?)、とか、三田市の総面積は210,22平方キロメートルである、とかいう事実は、その事実にたどり着くまでにはいろいろな調査が必要なこともありますが、結果は一言で表現できますし、だれでもわかります。少なくとも、わかった気持ちになれます。これに対して、民主主義とはなにか、愛とはなにか、豊かさとはなにか、など、誰にでも関係があり、まただれもが関心を持つ重要なことがらでありながら、いざ答えようとするとそう簡単ではない問いはたくさんあります。「総合政策とはなにか」という問いも、一見するとそれほど誰にでも関係があるように見えないかも知れませんが、今おはなししたように、現代の重要な問題に関係する学問であると言えるでしょう。そしてまたそれゆえにこそ、答が簡単ではない問いの一つであるともいえるでしょう。
この難問を攻略するまえに、さて、そのような難問とどのようにつきあってゆくのがよいのか、という外堀から攻めてみたいと思います。
その中で、私たちの知の営みは、単なる一つの世界ではなくて、サンドイッチのように、いくつかの層が重なってできているのだということを説明したいと思います。私たちが答えにくい問の多くは、複数の層にまたがる問であることが多いのです。それをきちんと区別して見ていくことで、問題がごちゃごちゃにならないように整理することができます。そして最後に、総合政策学とは何かということを「総合」と「政策」という二つの方向から考えてみたいと思います。

これまでに、高畑先生の全体的な導入の後、関根先生、長峯先生、長谷川先生、村上先生の4人が、それぞれの専門領域から総合政策への関わりをお話し下さったのですが、現在総合政策学部は60人ぐらい先生がおられるはずです。たった4人の先生がお話しくださって、あれだけ違う話が出てくるのですから、全部の先生が出てこられたらどうなってしまうのでしょう。一つの答えは出ないのですけれど、教授たち一人ひとりが、あるいはみなさんも一人ひとりが、ほかの人の言うことに耳を傾けながら、それぞれが総合政策とは、どんなものだろうと考えたり、あるいは口に出して語ったりする。そういった知的なボール投げをしていることが、総合政策の大切な部分になるのではないかと思います。
また、総合政策学部には何百という講義科目が開講されています。どんなにがんばっても、一人の学生さんが全部受講することなどできません。しかし、それぞれが総合政策学部の勉学のために提供されているわけですから、なにかしらの関係がなくては困る、ということで頭を悩ますことになります。数え切れないほどの講義科目の波間におぼれて、科目相互の関係などをしっかり考えるゆとりもないままに、目先の課題をこなしながら4年間の学生生活を過ごすのか ― そういう学生さんは、結局学ぶことの意味を見いだせないままに、アルバイトと遊びに4年間を使い、知的世界地図を必要としない井の中の蛙の人生を送ることになるでしょう。あるいは、それらの科目の関係や、役割を理解して講義を選択し、受講するのでしょうか。それによって、学ぶ内容や成果が大きく変わることは明らかですね。そして、それらの科目の役割や相互の関係を知るということは、知的な地図を頭に描くことの訓練でもあります。このような能力は、現代社会のさまざまな問題に向かうとき、ことに政策立案などの場面でも重要です。

■物語ること
情報の溢れる現代では普通のことですが、一度にさまざまなものに直面するときに、私たちはそれをただ集めて並べてみても、そこからは、なかなかましなものが出てこないことが多いですね。そのとき、どうするのかということですが、人類が昔からやってきた戦略があります。その戦略とは物語ることです。お話しをするということですね。な〜んだ、お話しするぐらい誰でもできる、などと言ってはいけません。現代人は、自分の好みや欲求に従って、個々の事柄についての意見(オピニオン)を言うことには慣れているけれど、物語(ストーリー)を語ることができない、とよく言われます。物語る、とは、個々の好みや欲求を表明するだけではなく、個々の事柄と事柄をの関係に注意し、また個々の事柄が全体の中で占める役割を考えながら語ることを意味します。ですから物語ることは、知の世界地図をえがくことにつながってきます。
たとえば、小さい子どもに大人がお話して聞かせると、それは短いものも長いものもありますが、お話しというのはさまざまなできごとが次々と起こり、相互に関係し合います。それを聞いて、子どもはそれを真似して、気に入ったお話ですと、自分の言葉で、だいたい同じ、しかしまた、その話す人、子どもの関心や言葉やボキャブラリーなどに応じて、すこしづつ違う話し方をしていくものです。また、自分自身の経験なども加味されることがあります。そういうかたちで、たしかに他の人から聞いた話なのだけれど、もう一度ゼロから自分で話し出すことによって、そういった無数のいろいろな事柄を自分で繋ぎあわせていくという、そういう能力を子供は物語を通して訓練していくわけです。
物語ることによって私たちは、自分の中でも納得をし、そしてそれを相手に話して納得してもらいます。それ聞いた人は、また自分と別の相手の納得する仕方で語り直し、語り継ぎます。つまり同じ事柄であっても、すでに与えられ、決まった言い方、つまりマニュアル化した表現にとどまらずに、柔軟に、それぞれの人の自由な表現を生かしながら、お互いに意思疎通したり、あるいはまた、それを次の世代に伝達していったりするわけですね。
そこに人間特有の「総合力」の重要なルーツがあると思います。しかし最近は、私たち自身が語るまでもなく、マスメディアを介していろいろな知識情報がどんどん入ってきます。マスメディアを通しても物語は与えられますが、私たちがそれを語り継いでも、メディアはそれを対等には聞いてくれません。人々も、メディアの物語に関心を持っても、それを語り継ぐ人の話には通常関心を持ちません。一方通行です。それで人々は、あまり自分から物語ることがなくなり、ただテレビ画面を見て、与えられた物語の中の個々のできごとを見て楽しんだり、好き嫌いと評価するだけで終わってしまうことが多いのかも知れません。それはしばしば「情報の消費」と呼ばれます。そのことによって、私たちはしだいに物語る能力を失う、つまり自分らしい表現や語りかたで、ものをリテル retell するとか、リライト rewrite する、というようなことをしなくなります。それが現代のコミュニケーション能力の低下をもたらし、更には自分自身に閉じこもる傾向なども助長されるのかな、と思ったりもします。
多彩な教授陣や講義科目のリストでも分かるように、総合政策に関する個々の情報は満ちあふれているわけです。しかし、それをそのまま眺めたり、この先生がいい、あの講義がおもしろい、と言うだけにとどまっているだけでは、総合政策とは何かという答えは出てきません。受験問題集のように、何かすでに、模範解答があるわけではないのですから。とすると、やはり私たちは、そのような古い昔からの人類の知恵である物語るというかたちで、それを自分の中で理解し、それをまた、お互いにシェアし合う、分け合うというかたちをとらざるを得ないわけです。
たとえば、自然科学の領域で、数学ですと、3×5は?と尋ねれば誰でも15と答えられるわけですね。そういう意味では答は一つと、一般に思われていますし、それから割合に近い例を挙げると、ねこでしたら、ねずみが目の前を駆けて行けば、どのねこもねずみを追いかけようとする、というようなことがありますね。
ところが人間ですと、目の前をねずみが駆けていったとき、そのねずみをすぐに追いかける人はまずいないでしょう。その反応は多様だと思います。場合によっては、叫びを上げて逃げ出す人もいるでしょうし、それから、もう遅すぎるのですけれども、ねずみ獲りを取りに物置に駆けていく人もいるでしょうし、それから大声で「ねずみがいるぞー」と呼んで、他の人に知らせる人もいるかも知れない。
つまり、人間という存在は、ある一つのことを見ても、それに対する反応は多様で、その反応が多い分だけ答えも多様である ― これが人間の世界です。ですから、たとえば、総合政策は何かというときに、それに対して一人ひとりが違う答を出したとしても、ちっとも驚く必要はないし、ましてや困ったと思う必要もないのです。総合政策とはなにか、という問いと、3×5は、という問とを単純に同列に置くことがそもそも間違っているのです。当然、アプローチや研究方法のちがいにも気をつけなければなりません。それぞれの問いの特性をしっかりと認識してから、それぞれにふさわしい研究方法を考えなければならないのです。

■星座物語を例として
以上のことを、例を挙げて説明いたしましょう。物語るということが昔からのかたちで伝えられている典型的な例が星座物語だとおもいます。


みなさん、スクリーン上の写真をご覧ください。これは何でしょう。といっても、もうみなさんには、講演要旨を配布してしまったので、種明かしをしてしまってるのですけれど、もちろんお星様ですよね。そして、星のことを知ってる方は、この下のほうに三連星がありますし、さらにその下に小三連星がありますので、これはもう、オリオンだなとすぐわかります。この小三連星の真ん中にあるM42という星雲が肉眼でも見える星雲です。晴れた月のない夜、山の上などなら肉眼で見えます。私も学生の頃、星座を観るのが大好きで、口径が大きくて倍率の低い望遠鏡や双眼鏡などを使って30分から1時間ぐらい、冬に震えながら見ていた思い出があります。
さて、これらの星々を見て、古代人はギリシャ神話のオリオンの姿をあてはめたのですね。このオリオンの話によって、それまでぜんぜんばらばらの、何の関係もない星たち ― 600光年離れたベテルギウスがオリオンの肩になり、800光年離れたリゲルはオリオンの左膝になったり、またそれぞれ何百光年も離れた三つの星が三連星のベルトになったりして、そういうかたちで、一つの大きな物語を構成していくわけです。
物語になることによって、逆に私たちは、あの肩の部分とか、左膝の部分とか、そういうかたちで星相互の位置関係も記憶できるし、また伝えやすくなってるのですね。そうして人びとは物語ることによって本来はバラバラだったものに一つの関係を与えていく、そのことによって人びとは異なる人々と、異なる事柄について語ることを学んでいったのです。物語を語り合い、語り継ぐことによって、人と人の共生、人と自然の共生が支えられてきたのかなというふうに考えております。
宇宙に無数の星はあっても、オリオンなど人間の想像の産物で、天空に現実には存在しないじゃないか、という人もいるかもしれません。しかし、人間の営み、例えば、言語とか、芸術とか、国とか、大学制度とか、さまざまな社会慣習とか、そういった多くの人間特有の営みも、宇宙のどこかに初めから存在したものではないのですし、月やスッポンのような自然対象と同じように観察できるわけでもありません。しかし、そのような特有の営みによって人間の文明は発展し、世界もおおきく変わってきました。もちろん、環境破壊のような問題をもひきおこしたのも私たち人間であることを忘れてはなりませんが、いずれにせよ、そのような、あるがままの自然を超えて、新たな意味や秩序を見いだし、またそれらを実現してゆく、ということは、わたしたち人間の人間らしさの根幹に関わることがらです。人間という存在を長期的な展望のもとで正しく評価するためには、新たな意味や秩序を生み出し実現してゆくというこの人間の特性を、その危険性も合わせて十分考慮しなければなりません。「人間の尊厳を護る」とはそういうことなのだと考えますし、まさにそのような人間の特性の故に、総合政策という学問が必要とされるのです。

■総合政策の物語
さて、そういったところも含めて、星の数ほどもある、というのは大袈裟かも知れませんが、総合政策学部で提供されている多数の研究領域をどのように物語としてまとめていくことができるのだろうか、考えてみたいと思います。私たちは総合政策という学問について考えているわけですから、物語るとは申しましても、何でも好き勝手なことを言ってよい、というわけではありません。しかし、総合政策をどのような視点から理解して物語るのかによって、物語る教授たちの専門分野によって、いろいろな物語りかたがあっても不思議ではありません。その多様性もまた、総合政策学部の知的な豊かさの証明でもあると思います。

2. 知的世界地図を描く ― 人間存在の重層構造

以下、知的世界地図を描くことを使命とする哲学研究者として、総合政策の全体を物語ってみたいと思います。それが次のテーマ「人間存在の重層構造」、これは私の大好きなテーマです。もう何度も聞かされて、耳にたこができてしまった学生さん、ごめんなさい。人間は一つの生を営んでいるのですけれども、しかし人間はその関わるものによって三通りぐらいの異なる考え方をしております。その第一は自然、第二は社会、第三は文化ないし精神の層です。つまり人間という存在は、自然、社会、文化という三つの異なる要素を組み合わせた複合体である、と言ってもよいと思います。実際にはそれぞれの層はシームレスにつながっており、またそれぞれの層をさらに細かく分けることもできますが、今回は話を簡単にするために一番大きな区分けを用います。



人間は第一に、自然の一部として生きております。自然の一部として、生き物として、私たちは身体をもっておりますし、そのために生き物としてのさまざまな欲求をもっています。その点では、人間もほかの動物たちと多くのことを共有しています。そうして、体調のバランスを崩すと病気にもなったりしますし、お腹がすいたりしますと機嫌が悪くなって、他の人と争ってしまう、とか、いろいろな問題も起こるわけですね。健康な精神は健康な身体に宿る、といわれているように、自然の領域は、社会や文化の領域が健全であるための条件でもあります。
次に人間特有の行動、動物でも上級の霊長類などの場合には、そういったものがだんだん入ってくるわけですけれど、このあたりの詳細は高畑先生におまかせするとしまして、人間について言うならば、社会的な側面というのが、非常な大きな意味をもっております。いや、私たち現代人の生活はほとんど全部、社会的な部分で行われ、また社会的に制御され規制されていると言ってよいと思います。
私たちのこの生身の体は自然によって与えられているのですけれど、それ以外は、身にまとっている衣服、この会場に置かれている機材やみなさんのおもちの配付資料、三田市まちづくり協働センターやキッピーモールなど、どれ一つとっても自然のままのものというのはないですね。すべてが加工され、あるいは社会の約束事によって動いている。一人の人間がここに立って、一所懸命しゃべっていて、他の何十人の方が、同じ方向に向かって静かに座って聴いている。他の動物たちがそれを見たら、人間とはなんと不思議なことをする存在なのだろう、と思うことでしょう。立ちあがって話をするのも、座って話を聞いているのも、講演会という催し、その意義と作法とが社会的に承認されているために、このような講演会が機能しているわけです。
さらに私たちは、ただ単に社会を形成しつつ生きているだけではなく、自分たちが社会を形成しつつ生きていることを知っており、おもに言葉・言論を媒介として、そのことの意味を考え、評価し、表現します。「すべてが加工され、あるいは社会の約束事によって動いている」と言いながら、私たち人間という存在の特性について思いをめぐらしますし、私たちが選挙権を有するのも、そのように知り、考え、評価することを前提としてのことです。これは人間の文化的精神的な営みの中でも重要な点の一つです。

■大学の三大領域
さて、大学には、昔から三つの大きな研究領域がありまして、それがこの3つに対応しています。一つは自然科学領域、もう一つは社会科学領域、そしてもう一つが人文科学領域です。人文というのは、ヒューマンという意味で、人間科学、あるいは精神科学とも言われます。総合政策学部はこれら三つをともに重視して全体の関係を総合的に取り扱おうとします。これは日本の大学の中でも珍しい部類にはいると思います。一番多いのは社会科学だと思うのですけれど、今ちょうどこちらに座っていらっしゃる中條先生は、自然科学領域の先生でいらっしゃいますし、他にも自然科学系の先生も大勢いらっしゃいますね。それから、社会科学、人文科学、私は社会科学と人文科学の中間あたりをうろうろしてる人間なのですけれど、そんなふうにいろいろな専門の教授たちがおります。もちろん、はじめにも申したように、そのような専門領域をもっていても、さまざまな領域の相互関係を、知の世界地図の中で押さえていこうとする姿勢は、総合政策学部に共通の理念だと申してよいと思います。
さて、この三つの領域、自然、社会、文化というのをもうすこし詳しく見てみましょう。自然の領域はどういうことをしているかというと、人間について言うならば、人間が体をもって生きている、まず生きてなくてはいけないということですね。死んでしまったら、その社会を形成することも、文化を育むこともできないわけですから、まずは生きなくてはなりません。そのために自己保存をする、つまり命をつなぐ。個人としては、私が明日も生きているためにご飯を食べなくてはいけないです。さらに、明日といっても未来という意味もありまして、私たちの次の世代が幸せに生きていくためには、その子孫を産み育て、面倒もみなくていけないし、教育も与えなければならない。そういった意味で自己保存というのは、一人ひとりが自らを生かしていくだけではなくて、人類の他の人たちをも生かす。生かすだけではなくして、必要な知識や能力を与えて、そうして未来に向かって旅立たせてやらなくてはいけない、ということでもあります。
で、この部分が第一番目の基本的な部分で、人間はさまざまな非常に複雑なメカニズムをもっていますけども、そのように自分自身を維持し、そして人間という種を存続させるという意味で言うと、それは他の生き物と同じ自然の掟にしたがっていると言ってもよいと思います。
しかし人間は、ただ生きるだけではないですね。古代ギリシャのソクラテス以来言いつがれてきたように、人間は「ただ生きる」だけではなくて「よく生きよう」とします。多くの他の動物は、生きていること自身が目的です。しかし人間は生きていることだけが目的ではありません。もちろん生きていなければ話にならないのは当たり前ですけれど、では、生きていればいいのかというと、生きていても、やっぱり人はもっとよく生きたいと思うわけですね。よく生きるために、その目的を実現するために人は、一人でやれることは限られておりますので、社会というかたちで力を出し合って、協力し合って、みんなが分業したりして、自分のできること、得意なことをする。お互いにそういうかたちで、その恩恵を与えあって、よりよい生活をしようとしています。
もちろん、よりよい生活をするというのは、共通の目的ですから、それだけで目的は一致していると言ってよさそうに思えます。たしかに初めのうち、ずっと昔だったら、食べ物が足りないとか、あるいは伝染病にかかるとか、そういうところではもちろん病気を防ぐとか、必要最低限の栄養を摂取するというようなことを、共通の目標にしているわけですね。ところが近代に近づいて、そのような自己保存の要求がだんだんと満たされてきますと、人びとも物質的に豊かになってきます。そうすると単にご飯を食べていっぱいになってるだけでよい、というわけにいかなくなるのです。しだいに人間は満腹以上のことを求めます。ひとまず食べ物に不自由しなくなれば、ある人はおいしいラーメンを食べたいというでしょうし、ある人はおいしいカレーライスを食べたいと言うかも知れません。そうすると、すでに家族の中で争いが起こりますよね。今までは食べることができればいい、ということだったら、そのような争いは起こらなかったのです。けれど、自由に選んで食べることができるので、何にしようかとプラス・アルファを求めだしたとたんに、よい生活、というときの「よい」とはどういうことなのかについて、人びとはさまざまな考えをもち、それによっていろいろな争いの種も起こってきます。今挙げた例は、無害でかわいい争いなのですけれど、若い世代にどのような知識や能力を与えたらよいのか、どのような人へと教育するのが望ましいのか ― どういう社会を実現するのがよいのか、理想的な社会とは何なのか、というような政策の話になれば、激しい政策論争がおこなわれることもあります。民主主義国家では政治のルールがしっかり確立されているので、激しい論争で済みますが、そうでない社会や、共通のルールが確立していない国、あるいは民族間・国家間では、手っ取り早く他の人のものを奪いとるケースや、さらに武力を伴う民族紛争や国と国と争い、戦争へと発展してしまうことがあります。
で、そのようになると、ただよりよい生活をおくろう、と自分の利益を求めて突っ走るだけではいけない、自分の欲求だけを信頼していると危険なこともある、ということに気付きます。そうしてひとは、よい生活とはどのようなものだろうか、と、その意味をたずねるようになるのですね。また同時にそれが、私がよりよい生活だと思っているのに、他の人は別の生活の方がよいと思っているために、おまえのやろうとしてることは、よくないなどと、逆に否定されてしまうことも起こって、更に問題は難しくなります。
そうすると、では、よりよい生活とは何か、という問題を、一歩さがって、あるいは距離をおいて見る必要が出てきます。その結果私たちは、一定の社会集団、あるいはまったくの個人レベルで「よい」と思いこんだことをがむしゃらに追求するのではなく、「よい」と言うことが多様に理解されていることをみとめつつ、よいということの意味を考え、追求するようになるのです。それぞれの社会でよいと思われていたことを鵜呑みにするだけではなく、よい、とはどういうことなのだろうと考えなくてはならなくなるわけですね。そういうふうに考えますと、このように私たちのもの、部分、先ほど、自然科学、社会科学、それから人文科学と言ったものは、それぞれに異なる役割をもっていると言ってよいと思います。
このように一歩一歩進んでくると、前よりも後、自然よりも社会、社会よりも文化のほうが勝っているように聞こえてしまうところがあるかも知れませんけど、後のものは、前のものがなければ、そもそも成り立たちません。そういう意味でいうと、三つのどの領域も不可欠であり、どちらが大切だとか、どちらが大切ではないと議論することは不毛だと思います。もし人間が生きていられなかったら、社会生活も送れないし、文化も維持できません。しかしもし、ただ自分の生存のためにただ生きているだけで、社会や文化をしっかりと育むことをしなかったら、人間は人間としての尊厳を失ってしまいます。ですから、そういう意味で、どちらもお互いが存在することによって、人間として、人間らしく生きていけるのだと言ってもよろしいかと思います。

■自然と社会と文化の領域表
今、申したことを、ちょっと表にしますと、こんなふうになるかと思います。
自然と社会と文化の領域、この3つは単に領域として違っているのではなくて、それらを支配している規則も違っています。また研究においてもそれぞれ違う方法があります。


たとえば、自然科学ですと、一番大切なのは、特に自然法則、さまざまなの掟、ルールにしたがって、すべてをきちんと必然的関係としてみていくということですね。もちろんそれは、先端の自然科学の研究においては、必ずしもそうとは言えないのですけれど、私たちが日常で出会う自然の現象においては、答は一つしかないのがふつうです。
それに対して社会のレベルでは、よりよく生きる、これも、みながご飯を食べて満腹するとか、病気にならないようにとか、そういう基本的なところではみんな一致するのですけれども、それを超えていきますと、しだいに答は一つではなくなってくるのですね。文化や歴史のさまざまな背景の違いによって人びとが求めるものが違ってきます。そしてまた、そういったかたちで人びとが物語る物語り方も違うわけですから、理想とするものも当然、変わってきます。むしろそういう違いがあると言うことが人間の人間らしさであると言っていいと思いますし、すべてのねこがネズミを追うように、みんなが同じ考え方や同じ行動をしだしたら、もはや、人間は人間でなくなってしまうという言い方もできると思います。むしろそのような画一的な社会ができてくるときに、人々は不安を感じますし、それが歴史上のさまざまな悲劇を生み出してもきました。人々は個々人がさまざまなものの考え方や行動の仕方で自分自身の個性を形作っています。同様に、人々のさまざまな集団も、その個性の総和によって、一定の傾向やバイアスを保っています。それが、家風、とか、地域の風習とか、文化、国民性、といったかたちで表現されてきたのです。交配可能な同一種に属しながら、これだけおおきな思考や行動の多様性を示すことができることは、人間の特異性と考えても良いでしょう。そして、種の多様性が生態系の安定に寄与するように、この思考と行動の多様性が、人間存在全体の安定に寄与してきたし、これからも寄与し続けるでしょう。その意味では、グローバル化という現象が、経済社会の画一化を手始めに、人間の社会生活や文化生活を画一化してゆくとするならば、それは人類にとっての歴史的な危機になるかも知れません。この問題を、まさにこのグローバル化現象の影響の広さに引けを取らないだけの大きな知的世界地図によって総合的に対処しなければ、将来迫り来るかも知れないより大きな問題に、人間は対処できなくなるかも知れません。そこにも総合政策学部の果たすべき務めがあります。
正解がただ一つではなく、たくさんあるということこそが、社会領域、さらに文化領域の特徴になってくるのかと思います。

3. 総合政策学は総合学である

■総合と3領域
さて、総合政策を、これまでお話ししたような知の世界の3領域との関係で見てみると、どうなるのでしょうか。伝統的な学問の三分法をつかうと、割合にいろいろなものがうまくはまってくると思います。
自然科学、社会科学、人文科学の三つですね。スクリーンをご覧下さい。総合政策学部で提供されている講義科目の中から、どなたでもご存じと思われるものをいくつか右の上にカードで並べております。
さて、この最初の自然環境論ですね。これは自然科学の分野に入ります。もちろん、総合政策学部においては、すべての研究領域は他の領域とつながっており、その意味では知の世界地図全体にあまねく広がっているとも言えるのですが、あくまでホームグラウンドという意味でこの位置に置いてみました。
次は生命科学。これも講義の中にありますけども、ちょっと人間、とくに生命ということで、自然よりも生き物のほうにシフトしていることで、ホームグラウンドはこのあたり、自然環境論よりは若干上のほうに置いております。


それから心理学。これは動物心理学というのもありますが、基本的にふつうは人間の心理学を表すことが多く、さらに社会心理学というサブ領域では社会のところに触れてもいますので、ちょっと頭を上に出させてあります。
それから経済学ですね。たとえば、人間が良い生活をして、おいしいものがたくさん食べられるようにとかですね。衣食住のようなものを、人間の生きるために必要なものを調達するという意味で、若干、自然の国に足をつっこんでいます。けども、システムとしては、これは社会に起こることなので、だいたい上のほうに入っております。
そして法学ですね。これは純粋に人間の社会のルールですので、社会のど真ん中に位置しております。ただし、人権は何によって保証されているのか、というような議論が始まりますと、その根は上下に長く伸び始めます。
そして政治学。これは確かに社会の動き方を、調整していくものなのですけれども、しかし調整するときにある一定の理念が必要ですよね。たとえば、民主主義、自由とか平等とか、基本的人権とか、そういった抽象的な理念も含まれます。抽象的と申しますのは、どこをさがしても、自由とか平等というものが転がっているわけないですね。これは目に見えない理想であり、私たちが生きるときに、それを頭の中で、心の中で、一つの目標として実現するように現実の世界を生きているという意味でいうと、文化の領域に頭をつっこんでるといると言っても、よろしいかと思います。しかし抽象的だからと言って、そのようなテーマを政治学から外すことは、人間の尊厳の自殺行為になってしまいます。
そして言語学。これも部分的には、社会生活をつくるのに私たちは常に言葉を使っていますから、当然、社会領域にも触れてますけど、言葉というのは、基本的に人間の心の中で、あるいは思考の中で動いておりますし、言葉というのは、私たちのものを考えるときの重要な武器でもありますので、そういう意味で文化の領域に、主に入れております。
あるいは人間の歴史。これは過去に起こった事実を記録する学問であると考えられがちですが、歴史というのは、人間が今から過去を振り返るということで、すべてを記憶の中において見ているということになります。歴史のできごとの中で何が記憶に値する重要なできごとか、という判断基準の歴史をも一緒に記憶するという、はなはだ複雑な構造をもった学問です。
それから、関西学院大学の場合は、キリスト教主義教育に基づく大学ですので、他にキリスト教学という授業があります。キリスト教は、人間存在の身体としての存在、社会的存在、精神的文化的存在という3つの層それぞれの特徴と役割とをしっかりとわきまえることを教えています。たとえば「人はパンだけによって生きるのではなく、神の言葉によって生きる」という有名な聖書の言葉を手がかりに考えると、キリスト教主義という考えかたの一端が見えてくると思います。私たちはとかく、自分の食欲や性欲や所有欲の満足など、自然の欲望を満たすことを中心に生きてしまいがちです。それによって人は利己主義に陥り、競争しあい、しばしば他の人を害します。そのような風潮の中、人のために生きようとしても損をするばかりだということで、本来は心優しい人もいつかは鬼の心に変わり、この世は鬼ばかりの世界になってゆきます。その結果人と人の共生、人と自然の共生の理想は更に遠のいていきます。幸い、そのような風潮に対して何とかしなければ、と考える人がまた少しずつ増えてきているようにも感じられます。
言葉によって人間は物語り、無関係に見えるもの同士を結びあわせ、それらに存在理由と意味とを与え、無から有へ、死から生へと呼び戻すのです。多くの文化圏で、言葉は人やものを生かしたり殺したりもできる不思議な力であると考え、それを超自然的な存在と結びつけて恐れ敬いました。日本でもかつて、言霊(ことだま)という表現がありましたし、お経を唱えるということも、そのような意味で功徳を積むわざと見なされたのです。コミュニケーションはラテン語の communicare(結合する)に由来し、communitas(コミュニティ)と同じ語源であることは意味深いことだと思います。それに対して現代では、言葉は、言葉を生み出した人間の心から離れて、ものの単なる記号となり、たかだか相手の心を操るツールとしか見られない有様です。その結果、共生を育む言葉の力に関心も敬意も示さなくなってきたのではないかと思います。一般に、日本語の乱れ、という表現には、コミュニティの乱れへの憂慮が込められており、根は深いと言わざるを得ません。人は自分の欲望第一に生きるのではなく、他の人とのコミュニケーションを通じて相互に助け合い、仕え合うものでなければならない、という人間存在の極意が、関西学院大学全体の「マスタリー・フォー・サービス(奉仕のための練達)」というスクールモットーとして結実しています。
さて肝心の哲学は、総合政策学部でもれっきとした講義科目なのですが、わたしが哲学の立場から総合政策学部の講義科目の関連性のお話しをしている関係上、この中にいれるのは控えました。実際に、中世ヨーロッパにおいては、第1回目の講演で高畑先生がお話しくださったとおりですが、総合学のことをヨーロッパでは哲学と呼んでいたのですね。本来、哲学は知恵を愛する、知を愛するということなので、当然、それは何々の知という、専門の知ではなくて、そういった全体の知を愛するという意味であったわけです。そのような意味において総合政策は一つのフィロソフィーであり、それはフィロソフィーが一つの総合学であることと表裏一体であると言えるでしょう。


4. 総合政策学は政策学である

■総合政策の「政策」とは
今度は、総合政策の「政策」という点に着目してお話しを進めさせていただきます。
総合政策は、世界の多様なできごとを、相互に関連したものであると考え、総合的にとらえると同時に、そのような総合的な視野のもとで、その全体の関係性を忘れることなく、具体的な一つ一つの問題に取り組んでゆく知的な構えであるといえましょう。
このあたりは、前の4人の先生のお話くださった一つ一つの問題領域、私たちが直面する三田市の問題とか、あるいは環境問題とか、そういったことに関係するところだと思います。私たちは、一方では一個人として、自分だけの身体を持ち、いろいろな願いや欲求や思いをもって具体的に生きているのですが、同時に先ほどお示ししたように私たちは、言論を媒介として他の人びとと共同して社会を構成しつつ生きております。それがコミュニケーションの意味でしたね。ですから、私たちは一方では、自然の国に生きる生き方と同時に、社会の国、文化の国というような、さまざまな国の間を移動しながら生きていると言ってもよいと思います。知の世界が重層的であると同じように、私たちの現実の生活も重層的な構造をもっているのです。

■知の世界の3つの国
この私たちの知という世界には3つの領域があります。それを3つの国にたとえますと、それぞれの国にはもっと小さな区分、都道府県とか、市町村とかの細かい区分もいろいろあります。それを細かく分けてゆくと、先ほどご紹介したようなさまざまな講義科目の名前になっていくわけですけれども、大きく分けた場合に、3つの国があると言ってよいと思います。それらの国々は、言葉も習慣も制度も法律も異なっています。その違いを大きな違いと考えるか、小さな違いと考えるかは、その人の感性によって変わってくるでしょう。

■自然の国と「公民」
では知の世界地図を構成する一番目の国、自然の国においては、政策はどのような形で関わってくるのでしょう。自然の国というのは、人間が自然のままの姿、すなわち身体をもった個々人が対象になる世界です。そこでの中心テーマは、個々人の生存と自己保存です。自然の世界では、自分が生きるために、場合によっては、自分の身体に属さないもの、他のものを弱肉強食で喰ってしまうことも起こりえます。自然界では普通に見られることです。しかし、そのような生き方が知性によって強められ、他の人間や自然に向かって意図的・計画的におこなわれるようになると、自己中心主義、エゴイズム、悪と呼ばれます。これに対して、自然に与えられた本能によって猛獣が獲物を食べてしまったとしても、それだけでその猛獣はエゴイストだとか、悪者だとか非難されることはありません。
そもそも人間は恒常的に共に生き、社会を形成し、助け合って生きることによって文明を築き、それによってただ生きる(自己保存する)だけではなく、よく生き、人間らしさを守り育むことができたのです。人間の体つきも、感情表現や思考方法も、気の遠くなるような年月を経て、コミュニケーション(共生の実現)に適したかたちに進化してきたのでした。ですから大切なことは、私たち人間は、それぞれが固有の身体をもった個人でありながら、そのような共同社会を構成するという仕方で生きるのに有利なように造られている、ということを理解することです。これからまた何万年、何十万年後の人類は、もし地球上にまだ存続できたとして、今とは違う特徴を備えるようになる可能性はあるでしょうが、今与えられている社会的動物という構造は一朝一夕で変わることはないでしょう。もちろん人間には、自分に与えられた本性に反して考え行動するという矛盾した本性も備わっており、その、文字通り復元不可能な極限が「自殺」ないし「自死」という現象ですが、また、自分の本性に反することのできる本性によって人間は、自分の思いや行動を反省し、欲望を制御したり、誤りを改善することもでき、それがコミュニケーション能力の重要な要素ともなっています。
更に知性は、自分に与えられた本性に完全に隷属することなく、自然を超えた新たな統合原理として人間に共生と共同性という生き方を与え、人間の世界にあたらしい意味を与えるのです。そのように新らしく生まれた世界の意味を物語り、語り継ぐことが、人間らしさの条件であることは、すでにお話しいたしました。そして、これこそが政策する人間のルーツなのです。政策の原語とされるポリシーという言葉は、本来ギリシャ語のポリス(polis)に由来し、人々が密に集まったコミュニティ(一般には都市国家と訳されます)を意味します。政策とは人間が密に集まって生きる存在である、社会的存在であるということを自覚することによって初めて可能になるのです。社会を、自己利益、私利私欲を追求する場としてのみとらえ、他者を自己利益のための手段としか考えないようでは、グローバル化した現代の共生社会は立ちゆきません。そのことを如実に示しているのが、地球温暖化の問題だといえるでしょう。
私たちがただ一人で自分のためだけに生きているのではなくて、共に生きているのだという気づきによって、着ている服から、マイクからコンピュータはもちろん、私たちの存在は、ほかの人々に依存しているということを会得することです。
そんなことは当たり前なのですが、それにもかかわらず私たちはしばしば、自分は自分一人で生きている、自分一人で生きられると思ってしまいがちです。私たちが気づき、心にとどめるべきなのは、どんなに自分で何でもできる、一人だけで生きていると思っても、実は私たちはほとんどすべてのものを、他の人に依存して生きている、お互いに依存しあって生きているという事実です。そのことを、しっかり自分自身のものの考え方の一部にすることが必要です。このことがおそらくは、自然の国のなかで私たちが政治に参加する資質を獲得するための初めの一歩です。そのような心構えが欠如しているなら、人間存在の重層的全体を貫く真正の公民は育ちません。その結果、人々は公的な次元の存在することを否定して、すべてを私的な、自己利益の関心に解消します。彼らは言います。「どうせ人間は自己の利益を求めて生きているのだから、公共のことを考えるなどというのはきれい事にすぎない!」そのように考え、主張することによって、彼らは、公民という存在の基盤そのものの破壊者となります。
大切なところなので、自然の国に少し長居しました。次は、社会の国を訪れて、この国での政治の可能性を検討してみましょう。

■社会の国と「公人」
人々がただ大勢集まって生きているだけではなく、公民としての資質と関心を持った人々が共によりよく生きる条件を見いだし、また実現しようとするとき、ことに公的な事柄に関わるエキスパートが必要となります。かれらは、公民としての条件を満たしつつ、自らの利益を求める私人として社会に関わるのではなく、社会全体の成員がよりよく生きるための条件を整えることを使命とし、そのために特別の自己制御能力が求められます。交通違反を取り締まる立場にある警察官が飲酒運転をすると、私人が同じことをしたとき以上の社会的非難にさらされたり、より厳しい処分を受けたりするのも、そのような一般的な理解にもとづくといえるでしょう。加えて、社会という人間共同体のレベルで政治をながめてゆく場合、組織力、企画力、運営能力、評価能力など、さまざまな行政にかんするスキルが重要になります。こういった能力を備えてプロとして政治の実務を遂行するのが行政家です。中央省庁の官僚たち、地方公共団体の行政職員などが代表的ですが、さらに、必ずしも公的な機関ではなくても、NPOその他の公的な福利のために活動したり、教育、医療、福祉、メディア、交通、通信など、利益利益の追求に還元できない公共的な役割を一定程度担っている仕事も少なくありません。アメリカの影響下、日本ではこれらの公共的な役割を担う分野が民営化され、私的利益追求の領域へと移管されていく傾向が強まりました。この問題について論じるのは今回のテーマの枠外ですので、深入りしません。大切なことは、そのような公的な役割を担う人々は、所属する機関が公営であると民営であるとを問わず、自己利益の追求を目的として動き出したらその役割を果たすことができなくなる、ということです。そのことを私たちはさまざまな例を通して知っています。人間は知性を持っている故に、よりよい社会の理想を描き追求することができるとともに、必要以上の欲望をかき立てたり追求したりして、そのために社会的な不正や悪を行うこともできるのです。だからこそ、そのような誘惑に陥らないように自らの欲望を監視・抑制する資質が必要なのであり、この自己管理能力こそが、公務にたずさわる「公人」の条件でもあります。もしそのような資質が欠けているなら、そのような人を法律と人の目だけによって監視することは可能なのでしょうか。すべての人がよりよく生きる条件を整えるよりよい社会を実現することを務めとす公人は、民間人以上にそのような自己利益の追求の危険を常に自覚し、自戒しなければならない、ということですね。

■文化の国と「グランド・デザイナー」

文化の国は、知的世界地図を描きます。そのようにして描いた知的世界地図を用い、自然の国、社会の国、文化の国にまたがって生きる人間の複雑な全体像を考慮しながら、政策形成の場面でも、人と人の共同体の中でよりよく生きるとはどのようなことなのか ― その理念やビジョンを語り出してゆくことが必要です。それらの理念やビジョンは、民主主義の国では選挙によって示される民意に基づき、憲法や法律を頂点とするさまざまな制度によって具体化され、保証されます。それらの理念やビジョンを、その実現に向かった道筋も含めて、多くの人々によって理解され支持されるようなかたちに表現しなければなりません。政治の理念を含む基本的な政策を形成するのにも、表現するのにも、その仕事に特有の物語能力、コミュニケーション能力が求められます。政治家というと、立法にたずさわる議員とか、大臣とかを真っ先に考えますが、都道府県や市町村においても、その首長や議員など、民意を代表しつつ政治の基本方針を語り出してゆく人々が必要です。また政治家と呼べる人は現職に限られるものではなく、政治活動を相当程度している人や議員をめざして活動している人なども含まれるでしょう。政治家であるかどうかの境界線は特に定まったものではなく、一定の年齢に達して被選挙権のある人はだれもが政治家になる可能性をもっているとも言えるのですね。だれもが政治家になりうる、ということの条件として、私たち一人一人の人間が公民としての資質をそなえなければならない、ということになり、先ほどお話しした「自然の国と公民」のお話につながってきます。また、政治の基本理念やビジョンを表現する人々は、民主主義の理念に基づいてすべての人が公民としての資質を備えるべきであると考える以上、あらゆる政策提言において、公民の育成という教育的・啓蒙的な要素が考慮されなければならない、ということでもあります。人々を頭から、自分の利益によって行動する無知な大衆として扱い、かれらの価値観や行動パターンを改善する十分な努力をせずに、現状における行動予測を立ててそれにたいして利益の誘導と罰則規定によって政治を行おうとすること、またその枠内でできるような政策を立案することは、ある意味では着実でリスクの少ない、楽な方法です。しかしそのことによって、人々が結果的に自己利益と罰則への恐怖、あるいは罰則逃れを目指して行動する風潮を強化することになり、公民としての成長を阻むことになるなら、放置することはできません。政治家は常に理想と現実との差を計りながら、多くの人が公民としての資質を育んでゆける条件作りにも心を用いるべきでしょう。最近の日本では、表だって派手なかたちではないですが、そのような気づきの萌芽が各所で育っているのではないかと私は感じております。
政治家は、民意を理解し、現実にしっかりと足をおろしながらも、近視眼的になって現実のぬかるみに足を取られることなく、広い視野から、政治に関わるさまざまな分野を眺め渡す知と力とが求められます。過去の歴史をふまえ、将来のチャンスやリスクを予想しながら、社会をどの方向に、どのように牽引していくべきか、と問いつつ、政治のグランド・デザイン(全体構想)を描くことができる人たちですね。政治のグランド・デザインは、知的世界地図を描き、物語ることと似通っていることがおわかり頂けるのではないかと思います。
だからこそ古来、政治家においては弁論術が重視されたのでした。それはただ民衆を言葉巧みに操縦するため(だけ)ではなく、そのような形で、目先の利益にとらわれた目には一見無関係に見える事柄の相互の関連性に光をあて、それら相互の関係を明らかにする、という役割を果たしていたのです。ですから政治家は、たしかに民意を組み上げなければならないけれども、個々の主張や要求に対して個別的に答えたり対応するだけで終わることができないのです。個人やさまざまな団体の要求や陳情をそのまま叶えるのがよい政治家ではなく、それらを地方政治、国政、さらに国際政治という大きな物語へと関連づけ、組み上げることによって、世界に新たな理念と意味とを与えるという責任があるのです。

以上で、人間存在の重層構造を下敷きとして総合政策学を特に政策学として見た場合の解説を終わります。
これまでの話はかなり理屈っぽいな、と思われた方も多いと思います。なにせ、地図は、いろいろな施設や場所の関係を一目瞭然に捉えるのには便利ですが、地図の上でレストランを見つけても、料理を味わうことができないのが、この手の話の欠点です。

そこで、この後の残された時間で、これまでの話をできるだけ具体的な話題に沿って分かりやすく説明してみたいと思います。

■まずは、知の世界地図に相当する政治のグランド・デザインは、政治家だけが描けばよいのか、という点からお話ししたいと思います。
それは文化の世界と、ほかの二つの世界との関係を考えることでもあります。
目先のことしか見ない目にとっては無関係とも思える事々や人々を結びあわせてコミュニケーションを生み出す物語能力の鍛錬は、政治のグランド・デザインを描く政治家だけがすればよいものでもありません。いやむしろ、主として社会の国に住んでいるように思える行政家も、自然の国に属する公民も、かれらがよい公民であり、よい行政家であるためには、社会の国を通ってさらに文化の国へと旅する必要があるのです。つまり、立法にたずさわる狭義の政治家だけではなく、政治の実務にたずさわる行政家にも、一定の理念とビジョン、およびそれを実現するための指針が必要となることはいうまでもありません。その方向づけ自体は、国民・市民を代表する立法機関の役目であったとしても、理念やビジョン、およびそれらと行政との関係にたいする感受性をもつことは、優れた行政の要件であるといえるでしょう。その意味で、公民も、行政家も、グランド・デザイナーとしてのセンスをもつこと、具体的には、政治家の描くグランド・デザインを正しく評価できるセンスをもつことが求められているのです。
行政家に対してはしばしば「官僚主義」という否定的なレッテルが貼られることがあります。それは政策の理念を真剣に受け止めることをしないままにルーチンを繰り返すことが結果的に現実の問題やニーズに対応できないときに使われたりします。しかしこれは、否定的にのみとらえることではありません。ルーチンワークができるということは、政策形成に関する知識や経験が十分に集積されており、個々の問題をどのように処理したらよいかという手続きが確立しているということでもあります。処理ルーチンとしての選択肢を事前にもっていることによって、問題に直面するたびにいちいち立ち止まってゼロから政策立案する手間が省け、取りこぼしが防げ、仕事の効率化が進むということでもあるからです。重要なことは、可能なところをすでに確立した手続きによって効率化するとともに、政策立案からその実施にいたるまで、それ自身の効率性や経済性だけによってではなく、つねにグランド・デザインとしての政策理念を十分意識したうえで行い、また評価されなければならない、ということですね。このあたりの問題は、公共政策と公共選択の二つの研究領域のコミュニケーションというかなり専門的な問題につながるので、今は深入りはいたしません。
つぎに、自然の国に住む公民は、たしかに生まれたままの自然人としては生身の身体によって、他の人から距てられています。しかしながら人間は、共同体を形成し、助け合いながら共に生きることによって人間らしさを形成してきたのでありますから、自分だけで、自分だけの生存と利益のために生きようとするだけでは、人間らしさをうしなってしまいます。そのような人間の危険性を知り、その危険を回避しようとすることが、公民としての出発点であると先にお話ししたのは、このような考え方によるものです。
しかし、さらに進まなければなりません。私たちはプロの政治家、政治のエキスパートではありません。しかし、私たちは社会の中で生かされているんだなという思い、だから、自分の利益だけを中心にして生きていると、社会は機能しないのだ、という認識から出発して、しかもこれだけ大きくなった社会では、すべての人が政治にかかわる直接民主制は不可能である、という事実をふまえて、行政家のプロフェッショナルな組織運営能力に対して信頼をおくことも必要ですし、また同時に、私たちが大きな社会の価値や目標について考え、政治家としての難しさや苦労を知り、共感できる、ということも必要なのですね。

たとえば、最近話題になっている裁判員制度もそういうところで見ていくべきなんだろうな、と思います。私たちはさきほど、このピラミッドの一番下のところで、一人の個人として、善良な市民として、自分のことだけを考えるのではなく、他の人々と共に生きる存在としての自覚を持った公民であろうとすることの重要性について考えました。この公民という生き方を理解するためには、人を裁く立場になる、ということは大きな意味を持ちます。なぜなら、裁判の結果は判例として以後の裁判の参考となりますし、裁判員制度によって下される判決は、一般市民の思いとしてできるだけ尊重していこう共通理解もあるようなので、裁判員は、社会の方向性に直接影響を与える立場になります。裁判員制度については、一方では、専門でもないのに人を裁くことなどできない、とか、仕事の妨げになる、とか、精神的な負担になる、などの理由から反論や慎重論も多いです。しかし、自分もいつか、裁判員として呼びだされるかも知れない、ということになれば、私たちは政治の三層のうちの最下層に安住するだけではなく、社会の国、文化の国という領域も、私たちにとって身近なものであり、そして必要なものだ、ということを常日頃から感じ取るようになるでしょう。そういうチャンスがわれわれに与えられる、ということでもあります。そう考えると、裁判員制度には、一人びとりに公民としての自覚を強めるという大きな意義があるのです。

現代社会の大きな問題は、環境問題でも、格差社会でも、また、家庭や地域学校などのコミュニティの崩壊にしても、一人ひとりが社会全体、生態系全体のことを考えるよりも、ひたすら目先の利益のことを考えて行動する傾向が強まることによって生じてきたと言って過言ではありません。それによって、全体のさまざまな関係やバランスを見る、いいかえれば、相互の思いやりの精神が失われてきたということが、現代の社会問題の重要な原因の一つとなっているのですね。自分の利益しか考えない自己中心的な人間が狼のように争い、弱者を踏みつけるのが当たり前のように生きてゆくのではなく、自分たちも実は、人と人の助け合いの中で生き、生かされているのだと気付くことが、公民としての第一歩だと申しましたが、裁判員制度は、そのような気づきを与えてくれるチャンスを提供してくれると思います。国や共同体のために個人の自由を押さえつける全体主義の悲劇にも歴史は事欠きませんが、しかしだからといって、その反対の極端に突進し、自分の都合や利益だけを前面に押し出すようなこことになると、人間は同時に、共同体を営みながら相互に助け合って生きるのだという人間の尊厳を見失うことになるでしょう。
その危険は、多くの一般市民が、政治の理念やその実施にかんして余り関心を持たず、むしろ民間人としてひたすら自分自身の利益を追求する、という傾向が強いところにあらわれていると思います。そうすると自分の利益追求に有利に働く政治がよいことである、という基準しかなくなってしまいます。国全体の政治に関心を持たずに目先の利益を求める選挙民は、知的世界地図に裏付けられた政策をデザインせずに選挙民の目先の利益のために活動する政治家に票を投じ、そのような政治家を量産する、という悪循環を生み出します。それがさまざまな政治の腐敗を招きます。裁判員制度などを通じて市民が自分の個人的な利益を追求するだけではなく、社会全体のことを考える精神的土壌を形成する道が開ければ、それによって社会全体が、政策に展望と方向づけとを求める傾向も強まり、その要請によって政治家自身がグランド・デザインを意識するようになるかも知れません。

次に、学校教育の制度を例として、「政策の重層構造」というテーマをおさらいしておきたいと思います。
学校教育についても、教育基本法および学習指導要領における初等教育(小学校)、中等教育(中学・高校)・高等教育(大学)という3つの目標設定を、人間存在の重層構造という下敷きで見てみますと、先に政治においてみたような三段階にほぼ対応しているのが分かります。即ち小学校においては、生徒が、人は自分一人だけで生きているのではないこと、それ故に一定のルールに従って生きてゆくものであることを学ぶことが目標とされます。つぎに、中学高校の中等教育においては、社会の一員としての自覚を個人の生き方を確立することが求められます。最後に、大学においては教育研究の自主性自律性が重視されていますが、それは、知的な世界地図を自らの責任において描く能力の育成と言い換えても良いとおもいます。
失敗したゆとり教育の反省にたって、子供達にしっかりと勉強させようと、教育が本腰を入れてきたことは、望ましいことだと思います。しかしその学校での学びが、市民の政治への関わりと同じように、自分の利益 ― 例えば将来高所得をえるためのキャリア教育 ― としてだけとらえられ、社会的な意味での人材を育成する場でもあるのだという意識が希薄になると、これまた問題であると思います。知が自分の利益を達成したり欲求を満たしたりするための手段としてのローカルな実用知(スキル)としてだけ用いられると、知的世界地図に至るような、必ずしも自己の利益に直結しないように見える知を無駄なものと考える傾向が助長される危険も生じます。そういった危険を避けるためには、悪しきゆとり教育に陥らないように注意しながらも、そういった個別的な実用知から少し距離を置いて、自分の利害を超えて全体を見渡すような知(知恵)の存在にも注意を喚起し、また関心を向ける教育も求められてくると思います。知の世界地図を描くという営みは、一定の目標を達成するための効率性、というところからだけ見ると、一見無駄に見えるかも知れませんが、まさに私たちの将来の展望と方向づけ、リスクの軽減といった、さまざまなものを与えてくれるのではないのかと、私はそう思ってます。それは、総合政策とか、哲学とかいった高度の研究活動に限らず、ことに年少期には、芸術、文学、宗教などを通しての情操教育や人格形成も有用であると思います。また、社会勉強、社会の役に立つ、といった実用面だけではなく、心の成長過程にも留意したボランティア活動もよいと思います。年齢にも依存しますが、活動の身体感覚がもたらす悦びや達成感などよりも、他の人のためにつくすことや、相手の悦びを通して間接的に得られる満足感などへの感受性の育成に重点を置くことは有益でしょう。
もっと現実的なことに触れますと、関西学院大学のような私立大学はもとより、国公立の大学でも日本では高額の授業料を払わされます。それは受益者負担の原則によるとも言われます。裏をかえせば、日本社会は教育を、個人が益をうるところ、つまり自己利益を増やす場として考えている、ということになります。これに対して、私が永年教えていたドイツの大学をはじめとするヨーロッパのたいていの大学では、授業料は実質無料です。そこには、教育は個人の自己利益に奉仕するためだけのものではない、むしろ社会全体にとっての人的資源の育成であり、それによって最終的には社会全体が恩恵を受けるのだ、という意識があると思います。当然、そのような意識を持って学ぶことは学生たちからも期待されています。ですから、日本の大学と違って、一回入学すればそこそこのことをしていれば必ず卒業できる、というのではなく、きちんとした勉学の成果が証明できないと、簡単には卒業させてもらえません。私の個人的な印象に過ぎませんが、ミュンヘン大学で教えていた頃、入学してくる新入生のうち卒業まで漕ぎつけるのは、おそらく半分程度ではなかったか、と思います。もっとも、あるドイツの同僚は、最近はドイツの大学も大衆化とレベル低下が目立つ、と嘆いていましたが、それでも聞いてみると学生への要求はまだまだ日本より厳しいようです。ですから、日本のように講義を休んでバイトをして回ったり、勉学の総決算となる最終学年、最近は3回生から始まるようですが、就職活動と称してほとんど大学に寄りつかずに卒業してゆく、というようなことは、想像を絶することでありましたし、血税によって人材を育成しているという意識の下では考えられないことだと思います。しかし日本では、それが保護者によって個人的に支払われるから社会的損失と考えられないのです。最近の日本の国力低下、国際競争力の低下の背景には、そのような目先の利益を考えて長期的な首を絞めてしまった日本の高等教育の在り方も影響していると考えております。

■公共性と予言的自己実現
鎌田は理想を語りすぎたのでしょうか。むしろ現代こそが理想を語る能力を失いつつあるのではないでしょうか。私は、一回生になったばかりの学生たちに、ゼミの最初の時間に今から約20年後に自分の40年間の人生を振り返る、という想定で架空の「回想録」を書いてもらっています。しかし最近の学生の多くは、ただただ当惑するか、あるいは今のおとなたちの生活を模写するにとどまります。大量の消費物資にあふれかえった現代、若者たちは、自分から進んで新たな世界を切り開く必要を感じていないのかも知れません。学生だけではなく、子供までもが、未来への夢を語らなくなりました。それはなぜでしょう。理想は、単発的な、個々の欲望とはちがって、理想は常に全体にかかわります。世界的な規模で考え、全体を物語るという仕方で全体の関係を構想する知力、知的世界地図を描く能力を要求します。理想を語ることのできなくなった現代は、自分の身の丈の届かないところにあるぶどうに、あれは酸っぱいぶどうだ、と捨て台詞を言うイソップの狐のように、理想なんか何にもならない、という捨て台詞を吐いて去ってゆくほかないのでしょうか。
歴史上の多くのエポックメーキングな時代がそうであったように、物語が生み出され、語り継がれ、信じられたときに、その理想は現実の力となったのです。時には危険な物語も語られたことも事実です。しかし物語を語り、知的世界地図を描き、理想を描くことをしなくなったら、人間は人間であることをやめ、その文化の反映の歴史に終止符を打つことになるでしょう。
然の法則というのはこれしかないということなので、変えることができないのですけれど、人間の掟というのは人間がつくって守ることによって実現していくものなのですね。ある社会学者が言っているのですが、予言的自己実現という言葉があります。人間は、予言をする、こういうふうになるだろう、こうなってほしい、とそのように言うことによって、いつのまにか自分の行動が、それに向かって動いてしまうのですね。そうすると、いつのまにか結果的に見れば、それが実現してしまう。
それは文化によって、歴史によって、それぞれのバイアスが生じてそれぞれ違う方向にいくのですけれど、しかしそれが、文化の多様性になってもくるわけです。それが日本の文化であったり、アメリカの文化であったり、あるいは中国の文化であったりすると思うのですね。
同じように、理想を尊び、物語る時代には、理想が実現しますが、それに対して、理想など非現実的だと捨て台詞を言う時代には、理想は窒息し、衰退してゆくほかはありません。

私たちは、人と人の共生、人と自然の共生という理想の下に社会を築いてゆくのだという目標を持ち、そのような物語を語り合うことのできるような公共空間の存在意義を認め、また守ってゆこうと考えるならば、そういうふうに考える人びとの思いが重なれば、ひとびとはまたそういうことを考慮して行動することになりますから、結果的に社会は、そのような思いやりを重視する社会になっていくでしょうし、逆にそんなことを言っても、どうせ人間なんて自分のことしか考えないし、言ったってムダだよ、などと捨て台詞を吐き出すと、そのような暗示を相互にかけ合うことによって、当然、みなが自分のことだけを考えるようになり、他の人のために良いことをしようという思考回路がはたらかなくなります。そうすると、その中で、たまたま、他の人のために何かしようと思っても、なかなかみんなが一緒にやろうとしないからうまくいかなくて、もう自分もやめた!ということになって、それで悪循環の輪が回り始めてしまう。人間の世界というのは、そういう意味で自分たちがどのような思いをもつかということが結果に非常に影響する、すなわち先ほど言ったような、予言的自己実現の世界なのです。予言が結果的に、予言をするという行為によって、自らを自己実現してしまう、そのことを自分自身にしてしまうということですね。そういったことを、性格をもっているのが人間の不思議な、社会的、精神的メカニズムだと思います。それを知って、私たちも、むしろそれを逆用するかたちで、良い方向にもっていけたらと、私たちはもう少し良い社会が希望することができるのではないかと思います。

■最後に
だんだんと難しくなってきたな、なんか言ってることがわからないなあ、というところもあったかも知れません。しかしまた、中には面白そうなテーマもあるな、と思われましたら、是非ぜひ皆様ご自身で更にお考えになってみてください。そして今までの、各先生が提起された具体的な問題点とも比べあわせながら、次回最終回の総まとめのシンポジウムに参加いただけたらと思います。大きな講義室にお座りいただいて、学生になった気分、あるいは学生に戻った気分で、是非参加していただけたらと思います。では、質問等ありましたらお願いします。どうも、ありがとうございました。(拍手)

<司会者:太田職員>
では、一人、二人の方から質問をお受けしようと思います。質問のある方、挙手をいただけますでしょうか。

<質問者>
最初に、司会者のほうから先生の紹介がありました。先生はドイツで研究なさったそうで、私、世界が今、ブッシュの時代のグローバリズム、これ非常にエゴイスティックな考え方を振りまいていたとおもうのですが、それに対してヨーロッパ、むかしEECと言いましたね、それが6カ国、7カ国ではじまり、ECになり、今EUと言われて何カ国になりましたか、だいぶたくさんになりましたね。私、ヨーロッパの考え方とアメリカのグローバリズム、非常に違うと思うのです。非常に手堅くヨーロッパは段階を踏んで、今のEUの通貨の統一、今度は政治の統一まで向かっておりますね。
これで、この違いを先生、将来、世界にとって、どういう方向に進むのがいいのか、その辺のお考え方をお聞かせいただければ、うれしいです。
――はい、ありがとうございます。これはまさしく、天下国家を論じる大きな問題ですね。アメリカ合衆国と欧州連合という、異なる組織と理念を持った国の統合体です。私も1975年の冷戦期から、短いドイツに下りまして、ほどドイツにいたのですけれど、その間に、現与党のキリスト教民主同盟という、あのメルケル首相の属する与党の研究部門である、コンラート・アデナウアー財団から5年ほど特別奨学金をもらっておりました。単にお金のサポートだけではなく、いろいろな人との出会いの機会も作ってくれて、ドイツやヨーロッパの価値観や政治観なども学ぶことができました。近代以降の国家運営は、基本的に経済政策が最も重要な要素となりますね。アメリカ型、日本もアメリカにかなり近い部分があると思いますが、アメリカ型の政治は、自由主義経済の維持管理を重要な任務とします。自由主義経済というのは、人間が合理的な仕方で自分の利益を最大限、実現しようとする営みである、とされ、それを純粋な形で体現するのが自由主義経済であると言われるわけですけれど、その際、個々人の自由を尊重して、なるべく小さな国家を目指すことがもとめられます。
これはけっしてアメリカが良い悪いということではなくて、むしろ、アメリカの歴史的背景を考えなくてはいけないわけです。たとえば、アメリカ合衆国への移民は19世紀頃から20世紀の初めにかけて最盛期を迎えました。17世紀以来、移民を開始して、新大陸に渡ってくる人は、せいぜいのところ、自分はトランクを一つ持ってきたか、二つ持ってきたか、それぐらいの違いしかない。つまり事実上、みんな文無しでくるわけですよね。運べるものは限られています。何も持ってないという意味でみな、同じスタートラインなので、後は努力しだい。努力したものが、努力しただけ手に入れて、その人の努力がむくわれるというところにアメリカンドリームが生きているわけですが、そういう意味で、自由主義経済というのは、アメリカの歴史的な背景にマッチした市場メカニズムであった。みんなが公平にスタートを切ったので、そういう意味で、あとは努力だけを重視すれば良いのだ、ということになりますね。現代のアメリカでは、社会階層の固定化が進んでいますが、アメリカンドリームはまだ残っていて、それが自由主義思想を支えていると言ってよいでしょう。オバマ大統領の勝利は、ひょっとすると、そのような自由な競争社会の夢が揺らいだことに結びついているのか、興味あるところです。
日本やヨーロッパは更に長い歴史をもっていて、その中で、さまざまな人びとや、さまざまな生きざま、社会的な違いが起こってくる中で、アメリカと同じ方法をとることはできません。当然、その場合には、一人ひとりに対して、それが大きな傷手を与える場合には、純粋な競争原理ではなくて、政府がそこに大きすぎる不公平を是正するように、大きな政府である必要はないけど、強い政府として、それを制御できなくてはいけない、ということですね。これは基本的に、社会市場経済 ― 国によって呼び名は違いますが ― という今EUがとろうとしている方向です。
そういう意味でいうと、EUはアメリカ型の自由主義経済と違うコンセプトを狙っているというのは確かでしょう。しかし、それは社会市場経済であって、社会計画経済ではないので、あくまでも市場経済のもっている人間の、経済的活力を社会のモーターとして活かしてゆくということになります。しかし、それが行き過ぎになってはならないので、それが政府がきちんと目を配っているところが大きな違いではないかと思います。しかし同時に、個々人も、本心では自己の利益をひたすら、場合によっては法の網をくぐってでも追求する、というような発想をしていると、そのような社会市場経済は崩壊します。国民の中にも、そのような意味で自分の際限ない欲望を制御する、政治における倫理性が求められるということです。そのような意味で、自己利益実現の私的欲求によってのみ駆動されるのではない社会は、公共的なことがらを重視します。そのような公共政策論は、個人の中に単なる自己中心的利益至上主義以上のものを期待している、ともいえるでしょう。私が担当する講義科目では、公共哲学、政策倫理、といった科目が、そのような問題を扱うことになります。
もちろんアメリカも今度のオバマ大統領になって、大きく方向を転じていった。私の今までの印象でも、ブッシュ大統領の発想というのは、非常に声が大きかったのですけれど、アメリカのみんながというわけではなかったと思うし、そうでない考え方があって、それが現在の展開につながっていったと思うので、私は、アメリカの将来というのは、また大きくいろいろな変化が起こってくるだろうと思います。願わくは、日本はそのような潮流から置き去りにならなければいいなあ、と思っております。
<質問者>
どうも、ありがとうございました。

<司会&質問者:太田職員>
ほかにありますでしょうか。すいません、私からも質問してもよでしょうか。総合政策学部で職員をしております太田と申します。ありがとうございました。
医療に従事している友人がおりまして、看護師をしているのですけれど、患者さんに寄り添うときに3つのことから寄り添わなくてないけないとよく言っているのですけれども。一つが、患者さんの物質的な痛みに応えていくケア、肉体的なケア、そして患者さんが病気をとおして、社会的に何か失ってしまうのではないかという社会的な痛みに添うということと、後、病によって人格的そのものが奪われるのではないか、という存在自体の痛みに寄り添わなければいけないと言ってて、今日のお話を聴いていて、おお正に総合政策だったんだと思って、ちょっと胸にグッときました。
で、一点、お聞きしたいのですけれど、政策を立案するときにその3つの観点から考えるのが重要とおっしゃってたと思うのですけれど、たとえば、先般の臓器移植問題を考えたときに、そこに臓器が必要な患者さんがいるということ、生物学的な脳死ということについては考えられたと思うのですけれど、その文化的な側面からの議論がほとんどなかったと思うのですね。
その文化的な側面から考える観点すらも、私たちは奪われていると思うのですけれど、そこを鍛えていくためにどうしたら良いのでしょうか。
――ありがとうございます。今のお話しは確かに、人間存在の重層構造というタイトルでお話しした人間生活の三層の関係と密接にかかわっていると思います。適切な例だと思います。私たちがまず直面し、また目で見て分かる問題は、当面物質的なことであり、物質的な対応が求められますね。しかし、そのような物質的な損害は、同時に社会的、精神的な問題にまでつながっているからこそ、私たち人間に重大な問題として認知されるのだと思います。物質的なものだけではなくて、その人がおかれている社会的な問題、それから、精神的部分ですよね。これは人間が自分のアイデンティティをもった存在として、そのアイデンティティが危機に瀕しているときに、その問題を素通りしていくらまわりの手当をしても解けないとということでもあるでしょう。
脳死の問題であっても、あるいは環境の問題であっても、あるいはワーキングプアに象徴される社会的な格差の問題であっても、重要なのは、三つの問題の層をちゃんと考慮してますか、という、意味でのアセスメントですね。これらを常に対等に、一方を他方に安易に解消することなく、自然、社会、精神文化的な層を考慮してゆくことは必要だと思うのです。そして、総合政策はそのようなものの考え方を育ててゆく学問だと思います。
<質問者>
ありがとうございました。

<司会者:太田職員>
次回の予告




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